1.出家
大学一年生の夏、美術部の先輩に誘われて
新潟栄町(現在は三条市)の東山寺の接心に行った
それから年二回の接心に通うようになり
3年生の夏接心が終わって、方丈に出家の志を伝えると
「大学は卒業しなさい。そして車の免許を取ってから来なさい。面倒みてあげよう」
と云ってくれた
弟子にしてもらったのは昭和六十三年九月だった
以来足かけ七年間東山寺の内弟子として厄介になった


  2.法事に行く
方丈は、何に付けても学校の勉強をするようには教えてくれなかった
あたかも、職人に丁稚で上がった小僧が、見よう見まねで仕事を覚えていくようなものだった
始めて法事に伴僧で連れて行かれたとき、お経はこれを読め、回向はこれだと経本を渡されて
いきなり法要が始まった
坊さんの格好をして数日。練習もせず
にいきなり維那が勤まるほど器用ではない
法要中焼香客がたくさんいる中で怒鳴られた
方丈を乗せて帰りの運転をしながら、こう云われた
「お前のお経はまるでなっていない。一匹の蚊のために死んでもいいという気持ちで読んでみろ」
今度はそつなく勤めようと、法事葬儀の練習に、本堂で鐘や木魚を叩いていると、
「お経は練習するものではない」
と、また怒鳴られる。それから練習は一切しなかった。そして法事のたびに怒鳴られ続けた
飯ぐらいちゃんと作れとちゃぶ台をひっくり返す人だった。星一徹のような人が本当にいるんだと思った
方丈を怒らせないように気をつけて暮らす日々だったが、修行の態度としては良くなかったと思う


   3.工夫
坐禅中はこういう工夫をしろとかという指示は特になく
「つべこべ言わず坐っておれ」
ということで
「訳がわからない」
と言うと
「もっと訳がわからなくなるといいな」
と云う
自分の工夫の様子を話すと
「そういうことをしない」
こちらがまた言うと途中でさえぎって
「それをやらない!」


   4.朝課
日課は3時に起きて本堂で坐る
5時ごろ方丈がやって来て坐る
6時から朝課
朝課が終わると、ごにょごにょ小言を云われる
ときに、お経中に怒鳴られる
すぐに着替えて廊下の拭き掃除、玄関の掃き掃除
8時ごろ朝食のお粥になる


   5.塔袈裟の偈
朝課の前に袈裟を着けるための偈文をとなえる
袈裟は袈裟袋に入れて置いておき、偈文をとなえて始めて着けるのである
入門したての小僧はそんなことは知らない
しかし偈文は経本にあるのを覚えたのでとなえると、
「袈裟を頭に載せろ」
と怒鳴る。こちらは障子に向かって面壁しているからどのようにするのかわからない
頭に載せろというのだから、着けていた袈裟をたくし上げて、がばっと頭からかぶった
方丈はそれきり何も云わなかったので、しばらくはそのようにして偈文をとなえていた


   6.坐る
朝3時に坐禅する日課は、方丈に言われたからではない
夜が早いので目覚めも早い
坐るために出家したのだから、時間があれば坐った
昼間天気がよければ庭の築山に向かって縁側で坐った
方丈は、楽に坐れ、坐を楽しむように坐れと云った
どうしたら楽に坐れるのか、どのような状態が楽なのか分からなかった
しかし、頼りとしたのは、兄弟子から聞いた言葉だ
「何もしないっていうのが坐禅の要訣なんだよ」
それが手かがりだった
何もしないように、何もしないようにと坐った


   7.作務
まだ東山寺に入りたてのころ、庭の草取り作務はよく方丈と二人でやった
草を取っても、掃き掃除をしても、方丈は私の数倍早かった
方丈と並んで草取りをしながら、私は何か言ったのだ。なんて言ったのか忘れたが、
きっと、何かつまらないことを言った
すると、
「うるさい。つべこべ言ってんじゃない。明日の朝まで草取ってろ」
言い残して方丈は行ってしまった
暗くなって何も見えなくなった。懐中電灯を借りてくるかと思っていたら、
奥さんが呼びに来た
台所で何か食べさせてもらっていると、方丈が風呂から上がって来た
そのまま部屋へ行ってしまうかと思ったら、立ち止まって言った
「作務っていうのはな、自分が無くて、からだが勝手に動いているというふうにするんだ」
とにかく、次の日から庭掃除は一人でやった


   8.風呂
東山寺に上がってしばらくは風呂に入らなかった
風呂に入れと言ってくれないからだ
そういうものなのかと思ったが、まだ彼岸前、作務で汗もかいた
仕方ないので、書院の縁側にある手洗い場で水をかぶった
十日もすると、奥さんに
「今日はお風呂に入ってくださいね」
と言われたが、今までそう言われなかった理由はわからない
それから風呂掃除と湯張りも日課になった
丁度、薪からガスに変わったところで、
兄弟子たちに比べたらはるかに楽な風呂作務だった
ずっと後に入った弟子で、風呂掃除のときに一番風呂まで使ってくる奴がいたが
私が師匠なら、すぐに追い出すだろう


   9.ただ
方丈が何も指導してくれなかったわけではない
今にして思えば、日常のすべてが指導の場であったようにも思われる
方丈が台所で包丁を研いでいるときのことだ
片手で包丁を持ち、砥石に円を描くように研いでいる
包丁の刃は左手をそえてまっすぐ動かすものだ。だから方丈にそう言うと
「修行道場にいたころにな、ちょっと頭の足りねえ和尚がいてな、そいつの研ぐ包丁が
カミソリのように切れるんだ。どうやって研ぐのかって聞いたらな、ただ研ぐんだってさ」
その話が琴線に触れた
なるほど、ただ研ぐのか
「何もしない」という工夫が、「ただ」に通じる気がした


   10.体験
東山寺の生活も三ヶ月程経った
坐禅することが生活の中心であり、坐禅しているのが当たり前の日常だった
ある雨の降る夜、本堂で坐っていた
どんな工夫をしていたか覚えていないが、ふと気づくと、自分の中に雨が降っていた
自分というものがどこにあるのか分からなかった
まわりのものが、今突然現れたもののように見えた
よくよく見れば、今坐禅をしている。立って部屋に帰る。しかし自分の存在感がない
電気を消して布団に入っても、自分のからだがまわりのものの中に広がってしまっている
次の日方丈にそう言うと
「おおいいじゃん」


   11.発心寺
発心寺の接心に行った。方丈は思う存分坐って来いと言った
格好だけ坊さんの黒袈裟小僧が、
よくも僧堂接心に出かけて行ったものだと今なら思う
東山寺では、およそ作法と名の付くものは教わっていない
まず五条衣(絡子)を着けていかなかった。薬石のとき維那和尚に怒られた
「お前は末席に着けろ。誰も貸してやるんじゃないぞ」
しかし、白人の庵主さんが、こっそり貸してくれた
東司(便所)に行くにも、袈裟を取って、大衣も脱いで入るという当たり前のことを知らない
やりにくいなあと思いつつ、袈裟と大衣と着物をたくし上げて用を足した
普段、坐具というものを使ったことがなかったので、持って行かなかった
いちいち維那和尚がこちらをにらんだ
こちらは金を払って泊まっている客だから、それ以上のことはなかった
坐禅の単は、維那和尚の正面になった


   12.独参
原田雪渓老師に独参した
自分の上に起こったことを言うと
「御自坊はどちらですか」
と聞き
「自分を観ている人があります。それを無くしてください」
と言って、鈴を持つとチリンチリンと鳴らした
はたしてどうやったら自分を観なくできるのか、もっと説明してほしかった
次の日は、
「自分を観ないんです」チリンチリン
次の日、
「ただ楽に坐っているだけでは六十年かかります」チリンチリン
けんもほろろであった
五日目に飽きて帰りたくなった
典座さんに帰る旨を告げて発心寺を出た


   13.内省
東山寺に帰り、方丈に発心寺でのことを話した
「お前そんなことでは俺の法を嗣ぐのに一万年かかるぞ」
法を嗣ぐといわれても実感がない
「自分」の問題解決のために、大学で心理学などかじって、その果てに東山寺にたどり着いたのである
「自分」の問題の焦点が、どこかずれている、間違ったところにあると感じた
なにもしない
ものとひとつになる
ひとつになったことを見てなければいいんだ


   14.村
東山寺はとある部落の奥にある
私もその村の住人となったわけだが、都会育ちの人間には大分勝手が違った
道ですれ違って挨拶をしても、挨拶が帰って来ない
全く無視されているのだ
自分が何かしたのかなと思い返してみても思い当たらない
方丈に言うと
「まわりの奴らなぞキツネかタヌキだと思っとればいいんだ」
その後、日本中どこへ行っても同じだと気づく
人間も動物なのだと認識を新たにした


   15.安居
東山寺に上がって一年
弟子がもう一人入ったこともあり、どこか僧堂へ安居することになった
歴代の兄弟子たちは発心寺に行った
発心寺には嫌みな維那和尚がいる
探したら、割と近くに大栄寺という僧堂があった
住職になるための資格が取れればいいのである
平成元年の秋
刑務所に入る覚悟で上山したが、はたしてそこは東山寺にいるよりずっと楽だった
堂頭老師は
「坐禅をしても庭はきれいになりません」
と云う人で、坐禅は朝30分程格好ばかり坐るだけだった
一人で坐っていると
「在家から来たのは変な奴ばかりで困りますね」
と、古参が云っているのが聞こえた
配役は輪番制で、一年目からなんでもやらされたので
東山寺で教えてくれないことをいろいろ覚えられたのは良かった
そのうち同僚もできて、新参者も入り、和気藹々と楽しく過ごした
二等教師取得の資格を得られたので、一年で送行した


   16.托鉢
平成3年の秋、托鉢の旅に出た
兄弟子達も托鉢して歩いた
寺に宿泊するには
4時半の晩課前に寺に入り、朝作務でトイレまで掃除して出発するのが作法と教えられた
それを実行した兄弟子の一人は、寺に入ったが、警察が来て追い出された由
いまや寺は家庭である
そこで一計を案じ、廃車寸前の軽ワンボックスカーを五万円で買った
車で生活し、車で着替えて、商家を托鉢してまわるのである
はたしてこれが托鉢行脚といえるのかどうか
とにかく千葉の銚子を皮切りに、海沿いを南下
四国を一周し、九州の南端開聞岳で正月を過ごし
東山寺に帰ったのは一月も終わりだった


   17.青野敬宗老師
四国の今治に、井上義衍老師の嗣法という青野敬宗老師がいた
還俗して薬局の店主をしているというので訪ねた
敬宗老師は薬局から少し離れた一軒家に住んでいた
家の中は、玄関から奥まで相当散らかっていて、足の踏み場もなかった
しかし、突然の見知らぬ訪問者を歓迎してくれた
私を椅子に座らせると、その前に正座して話をしてくれた
母の死が道を求める機縁だったこと
師を求めて、表日本、裏日本を三遍回ったこと
義衍老師に巡り会って、参禅
一ヶ月水しか飲まず、庭石の上で昼夜坐禅三昧の末
あるとき芦が風に揺らめくのを見て成道したこと


  18.敬宗老師のお話
「世の中に老師というのはいっぱいいるよ
でも皆お経をあげてお布施をもらうだけのことだよ
想・行・識において立派な人はいる。今老師と呼ばれるような人はそういう人だ」
そして私の手の甲に人差し指で一の字を書いた
「この指と一緒に動くのは、あんたの頭から足の先までのどこだね」

「・・・・」私は答なかった

「頭で考えたってわからんよ。今日まであんたが蓄積してきたものを
一度金庫に入れてカギをかけなさい。考えや知識でわかるんじゃないんだから」

老師は胸に指で円相を描いて

「ここを空にして坐りなさい。そして自分を動かさないのです
自坊に帰って掃除やなにやら忙しいであろう。何を云われても
ハイっと言って、シャッシャと終わらせて、そして坐りなさい
ああ言われた、こう言いやがったと自分を余計なことに疲れさせないようにしなさい
五感をみんなそのままにして、でも決して(胸を指して)ここまで入れないのです
そうすると、ものを見ても(目の前に手をかざして)ここから入ってこないのです
聞いても(耳に手をかざして)こっちに入ってこないのです
まわりのもので自分をまどわさないのです
そうして坐るんです
必ずあなたを動かす根源が自覚されるときが来ます
やれば必ず出来ます」


   19.北海道
東山寺へ戻り、かつて大学の先輩だった同僚と一夏過ごした
その人は発心寺に1年安居したが
そのときのつてで、札幌の寺に納所することになった
なかなかの高給取りで、私も一緒に行きたかったが
東山寺に次の弟子が上がるまで許されなかった
新しい安居者が来て法事が勤められるようになったその年の冬
同僚を頼って北海道へ渡った
フェリーが着いた夜明け前、小樽は吹雪だった
スパイクタイヤが禁止となったため、ピン抜きタイヤで峠を越える恐怖
目的の寺は歓楽街すすきののはずれにあった


   20.月参り
月命日にお経を上げに行く
何千件もある大寺は、兵隊を雇って回らせる
私もついにサラリーマンとなった
丁度住職交代し晋山式の準備をしているときだった
合わせて受戒会を修行するというので
納所達は月行のついでに受戒会の参加者を勧誘しなければならない
一人5万円なり。勧誘成功すれば歩合が付く
営業成績は棒グラフにして張り出された
営業目標を達成出来ない者は肩身が狭い
こんなことをしている坊さんもいるんだ
結局8ヶ月勤め、何か適当な理由を言って辞めた


   21.井上貫道老師
私は静岡県三島市にある寺に婿に入った
静岡にはかつて浜松に井上義衍老師がいた
井上貫道老師は義衍老師の実子で掛川少林寺に住職していた
その禅会に参加したときの提唱に、義衍老師に参禅していたお婆さんの話があった
文盲であったその人は、老師に片言の葉書を出したという
そこには「知ルコトデハナイ」とあった
それを義衍老師は大変褒めた由

「知ルコトデハナイ」
そうか
積年の疑問がこのとき晴れた


   22.工夫
観ている自分を無くせと言われれば、自分がまずあるような気になる
自分を自分で無くすという輪廻の深み
自分とは、自分の様子を知ること、認識の結果、つまりは自分で作り出したところのもの
方丈は云う
「仏はほっとけだ。これは知らんぷりの法だ」
それを、放っておく工夫の結果としての自分のありようを知ろうとしていた
そしてこれが知り得た境地ですと言って、方丈に提出しようとしていた
まったく坐禅になっていなかったのだ
方丈は云う
「初参で坐った姿がすべてだ」
その意味が分からなかった
心の内容、ありようが問題だったからである
しかし、自分のありようを知ることではなかった
知ったら、それは観念の世界だ
無くすべき自分なぞ最初から無いのである
無いまま生活すればそれが今そのもの、本来の自己であった
方丈は親切にも最初からそう示してくれていたのに


   23.遷化
私は住職というものになった
自分の禅会をもつようになった
かつて念願だった、東山老師を呼んでの接心会を開いた
その一月後、突然方丈は遷化してしまった
印可を許した弟子は一人もいない
かねて方丈は言っていた
「俺はお前達に印可してもらおうと思ってるんだ。早く俺を印可してくれ」
今、弟子たちは、皆それぞれの道を行く


           
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