縁起
すべてのもごとは、ある条件があって結果としてのものごとが生じます。
自分というものは、見たり聞いたり、思ったり考えたり、感情を持ったり、行動したりしたことを観念的にとらえることによって生じます。
テレビに見入っているとき、自分という問題は生じません。自分は今テレビを見ていると考えたときに、自分という観念が生ずるのです。
諸法無我といって、どこにも自分が実在しないというのは、自分という観念について云っているのです。
自分とは、からだの働く様子について考えたときに、考えているということをもって自分と思います。
考えることを止めると、自分は消えます。
条件がなくなれば消えるのです。
坐禅中、悟るということを念頭に置くと、自分を無くそう、自分を忘れようと工夫しがちです。そうすると、自分が無くなったかどうかが問題になり、自分のことを考え続けるために結果として自分が無くならないということになります。
自分という考えから離れることがなければ、自分が失せるということはありません。
自分と見るから自分が在ると思うのです。
自分と見なければ、自分という観念も発生しません。
自分というものはもともと実体がないのです。
考えるという条件をもって、自分という思いがなされるということです。
これを修行の上に照らしてみると、坐るときは只坐る、お経をあげるときは只あげる、食べるときは只食べる、掃除するときは只掃除するというふうに、自分を振り返らないのが良いのです。自分と見ずに、からだをただ働かせておくのが良い修行となります。
自分を見ることなしにやっていると、自分があるという感覚が消えて、考えても自分が無いとしか思えなくなります。
坐っていると畳の中に自分が入っているとか、雨がからだの中に降っているとか・・・自分を見るという条件が無くなると必然的に自分が消えてしまいます。
自分というものの本来(自分というものに実体がないということ)を知ってみることが大事です。
そうしないと、仏説というものが我が身の問題とならないのです。
それには、自分を見るという条件を止めるだけで良いのです。