正法眼蔵

現成公案

 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

(現代人は自分のものの見方、考え方を大切にします。自分流というのが尊ばれる時代です。いきおい仏教も自分なりのとらえ方をすることになります。そうすると、自分の考えがまずあり、その上で仏教をどうとらえるかという問題になってきます。)この世あらゆることを、仏法というものを学んだ上で説明しようとすると、そこには迷いがあり、悟りがあり、生と滅があり、諸仏があり、衆生がある。
 自分のものの見方、考え方を差しはさまずに、すべてのものがただあるだけのときは、迷いや悟りは無く、諸仏、衆生の区別もなく、生と滅もない。
 仏教というのは、もともと迷いから解脱したいという人の思惑から出て来たものだから、生滅や迷悟を問題にし、なんとか生きているうちに仏になりたいと願うのである。
 しかも悟りたいと念じながら、花を見れば愛惜に散ると見えるし、草は雑草としか思えない。


 自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり。悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり。迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず、しかあれども証仏なり。仏を証しもてゆく。

自分を観察しながら悟ったかどうかを問題にしているのは迷いそのものである。まわりの世界がただあって、自分がまったく問題にならないのが悟りである。自分という問題がありながら、それから手を離すのが諸仏であり、忘我を得たと喜んでいるのが衆生である。さらに自己をとことん殺していく漢があり、自己に変化があったことを大事にしている奴もある。諸仏が正しく諸仏であるというのは、自分が諸仏となったと知ることではない。知らないからこそ証仏なのである。知らないまま行けばよい。


 身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず。水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

全身をもってものを見、全身をもって音を聞くとき、相手と自分とがひとつになっている。しかしそれは、鏡にものが映るというようなものとは違う。水に月が映るのとも違う。(鏡とそこに映ずるもの、水と月というように、二つの相対するものがある。しかし、今自身が見聞しているところは)相手だけがあって、こちら側は同時に認識されない。


 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟跡の休欠なるあり。休欠なる悟跡を長々出ならしむ。

 仏道を習うというのは、本当の自分とは何かを知ることである。本当の自分とは何かを知るということは、自分を忘れることなのである。自分を忘れるというのは、自分のまわりのすべての在りようと、自分の在りようとが同じであると立証されることである。まわりのすべてと自分とが同じであるというのは、この身体や心が、まわりの環境との縁に随って働いているだけで、まわりと自分を区別する意識が無くなることである。自分が元々無いのだという認識す
失せるときが必ずある。そして只、縁に随っていくのである。



 人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本人分なり。

 仏道を知って始めて仏法を求めようというとき、自分が悟ろうという意識が先で、悟ろうとしている自分を忘れなければならないという方向に行かないので、返って仏法から離れてしまうのである。仏法が自分に正しく伝わるとき、間を置かず本来の自分の在りようとなる。


 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。めをしたしく岸につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

 舟に乗って進んでいるとき、岸を見ていると、岸の方が動いているように錯覚する。よくよく見れば、舟の方が進んでいるに違いない。そのように、自分の身と心のことばかり気になって見つめていると、この身の中に自心自性という中心があるような錯覚におちいる。もし自心自性はもと無いという仏説を素直に信じて、もとの在りように落ち着けば、まわりの世界がただこのようにあって、そのどこにも自心自性など無いという道理がはっきりするのである。


 たき木、はひとなる。さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死にあるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり。死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏になるといはぬなり。

 たき木が燃えて灰となる。灰がもとのたき木にもどることはない。それを、灰が後の結果であって、もとは薪であったと見てはいけない。仏法を学ぼうというのなら知っておかねばならない。薪は薪の法位にあって、今ある姿がそのまま結果である。以前もこの後も同じ薪だというかもしれないが、常に今の結果であり、前後はない。灰は灰の法位にあって、常に今の様子である。その薪が灰となったのちに、また薪になることはないのと同じように、人が死んだのちに生き返るということはない。常に今の結果しかないのだから、仏法では生が死になるとは云わないのである。であるから、不生というのである。また死が生にもならない。それが釈尊がお説きになった法である。この故に不滅というのである。生のときは今の一時において生なのであり、死は生とはつながり無く、今の一時において死というようすなのである。たとえば、冬と春のようなものだ。冬が春になると思わず、春が夏になるとは言わない。



 人のさとりをうる。水の月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりをけい礙せざること、滴露の天月をけい礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水少水を検点し、天月の広狭を弁取すべし。

 人が悟りを得るというのは、水に月が映るようなものだ。月はぬれず、水もゆるがない。広く大きな光であるけれど、尺寸の水にも映り、満月も弥天も、草の露にも映り、一滴の水にも映る。もし悟りを得たとしても、その人の何が変わるわけでもない。それは月が水面に変化を与えないようなものだ。人が悟りを得るには、さまたげとなるものが何も無い。それは一滴の水が月を映すのに、なんのさまたげも無いのと同じである。悟りの境地が深いとか浅いとか、人のものさしを当てれば計ることもできよう。悟るまでの時間の長短は、自分を捨てる覚悟の大小にしたがうのであり、それによって悟りの広狭が決まるというものである。


 身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとえば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ。さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず。のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし。瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

 修行がまだ未熟なうちは、仏法のことはみんな分かったようなつもりになるものだ。仏法が本当に自分のものになれば、どこか物足りない気がするのである。たとえば、船に乗って大海に出て四方を見ると、ただ水平線がまるく見える。その他の形に見えることはない。それはそうにちがいないが、この大海はまるいのではなく、四角でもない。まだ残されている海の様々な徳というものが見尽くされていないのである。宮殿のようでもあるし、瓔珞のようでもある。ただ自分の眼のおよぶ限りにおいて、まるくとだけ見えるのである。ものの在りようというものは、すべてにおいて同じである。塵のような小さなものから宇宙にいたるまで、限りない様相があるけれども、自分の修行の至ったところからしかものが見られないのである。世界のあらゆるものの本当の姿を見ようと思うなら、まるとか四角としか見られないのではなく、自分の範囲を超えた海徳山徳が限りなくあって、たくさんの世界があることを、まず知っておかねばならない。一方から見るだけではいけないのは、大海も一滴も同じである。


 うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみずそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す。魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし。以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし。以命為魚なるべし。このほかにさらに進歩あるべし。修証あり。その寿者命者あること、かくのごとし。
 しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李にしたがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

 魚が水の中を泳いで行くとき、どこまで行っても水の終わりはなく、鳥が空を飛んで行くのに、どこまで行っても空の終わりはない。魚も鳥も昔から水や空を離れるということはない。大海を泳ぐなら大きな力がいるし、金魚鉢の中なら使う力も小さい。このようにして、なんでもその持てる能力があり、どこででもその力を使って生きているわけだが、鳥がもし空から出てしまえば、たちまち死んでしまう。魚がもし水から出てしまえばたちまち死んでしまう。水イコール命。空イコール命。鳥イコール命。魚イコール命。命イコール鳥。命イコール魚。さらに言えば、修行イコール悟りなのである。修行イコール悟りとなっていないとすれば、それは間違った修行をしているからである。生きることのすべてが修行であり、そのまま悟りでなければならない。
 
それにもかかわらず、水や空の何たるかを知り尽くしてから、水や空を行こうとする鳥や魚があったならば、水にも空にも道を見つけることはできないし、居場所もない。このところをよく納得すれば、今の自分のありようのままで良いことが分かる。この道を得れば、今の自分のようすに手をつける前に、すでに現成している。この仏道、今ここということは、大きいとか小さいとか判断する以前のものであり、自分があってその他のものがあると区別をつける以前のものであり、以前からあると思うようなものではなく、今まさにそうだと思うのでもない。まったく自分の思いというものが介在しないで、ただそうだったのである。

 
 しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり。みち通達せるによりて、しらるヽきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

 
このように、人がもし仏道を修行して悟りを得ようというのならば、単純明快な法理を会得すればよい。そうすれば仏法に通じたと云って良いのだ。坐禅という誰にでもできることが、この修行のすべてだと思えばよい。そしてその答はあやふやなことではなく、明確に出るものだ。仏道に通じ、悟りに達したら、知られるはずの境地が知られないのは、悟りの境地を知るということの、仏法の究極であり、修行ということがそのまま悟りのようすとなっているため、自分で知覚しないのである。得たところのものが、必ず自分の知見となり、意識でとりあつかえるものと思ってはならない。悟りはすみやかに現成するものであるが、その境地を見て自分は悟ったと知る必要はない。

 
 麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ。「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」。
 師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。
 僧いはく、「いかなるかこれ無処不周底の道理」。
 ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
 僧、礼拝す、
 仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。

 
麻浴山宝徹禅師が、扇を使っているとき、修行僧が来て禅師に問うた。
「風の性というものは、常住であって、どこにでもめぐらない処はないと云います。禅師はなぜさらに扇を使うのですか」と。
(それは、悟りは誰の上にも備わっているというのに、なぜさらに修行をするのかと聞いたのである。)
禅師が答えて云うに、
「おまえは風性常住ということを知っているが、無処不周を云わない道理を知らない」と。
(というのは、僧は自分の上にも仏性があることを知っているが、仏性は知られずに働いている道理が分かっていないというのだ。)
僧が問うて云うに、
「無処不周の道理とはどういうものですか」と。
すると、禅師はただ扇を使うのみであった。それは、知ることではない、ただそうだった世界をありのままに示したまでである。
僧は礼拝した。
 仏法というものを悟って、正しく伝えていくようすは、このようなものである。誰でも仏性を持っているので修行はいらないとか、修行しなくても、もともと仏であるとかと云うのは、仏性や修行の何たるかを知らないのである。仏性は誰の上にも備わっている故に、修行というものが、大地を黄金に変え、長河から豊かな恵みを得るほどの力を持つのである。


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