正法眼蔵

弁道話

 諸仏如来ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。
 この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり。
一多のきはならむや。かたればくちにみつ。縦横きはまりなし。諸仏のつねにこのなかに住持たる各々の方面に知覚をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する各々の知覚に方面あらはれず。
 いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらむや。

 諸仏如来がともに釈尊の教えの肝心なところを代々伝えてきた。その肝心なところを今自分で証明するのに、最上にして無為の妙術というものがある。そのほとけからほとけへ伝えられた間違いのないところは、自受用三昧
である。この三昧になりきるには坐禅を正門とする。仏法というものは誰の上にも豊かに備わっているけれども、修行しないと現れてこないし、悟らなければ得ることができない。ただ自分を手放せばいいのだ。どれだけ手放せ
ばいいかという次元の問題ではない。手放す自分が無ければはじめから法が手に満ちている。それでこそ話をしても間違ったことは言わず、なんでもかんでも手当たり次第法でないものはない。諸仏は常にこのように手放しで
得るものがないから、こうでなければならないという決めごとがない。何を考えても思っても、決めごとがないから只出ては消え出ては消え、ということのみ。この工功弁道は、なにも土台の無いところに出ては消えを繰り返し、何
が出て来ても同時にそれと一つになっている様子である。そのときそれを観察しているものは誰もいない。

自受用三昧
(じじゅゆうざんまい)とは文字通り自分を受け入れっぱなしにすることです。心に出て来るもの、見るもの聞くもの感じるもの、すべて出て来るまんまです。さてこの宙ぶらりんの状況が参禅者の不安を助長します。
どのようになったら手をつけていない状況なのか。こうしたら、ああしたらと、どんどん自分を働かせて手が離れません。やがて開静鐘が鳴って、ああこの坐も駄目だったかと自分を責めることの繰り返し。どうしたらではなくて、
そのすべてが今の様子です。手が離れないというなら、それが今の様子に他なりません。だからどうなのか・・・。どうでもないのです。自分を特別なものにする必要はありません。自分を他に抜きんでて悟りという境地まで高め
てやろうというのが、そもそも間違いのもとです。不安は不安のまま行けばいいのです。「今」は万人に平等ですから、誰の上にも豊かに備わっています。今は現実ですから疑いようがありません。疑いようがないから迷いようが
ありません。それなのに人の慮りは未来の心配と過去の繰り言で占められて迷いに迷うばかりです。
そのすべてが今の現実なのだと目を醒まさせるのが禅です。今を受け入れっぱなしにすれば、未来に何かもとめようとする
人が無くなります。それが自己が失せる、自己を忘じるということです。他に何か特別なことはありません。自分というものがあって、それが坐禅をして悟ると思っていると間違えます。自分というのは思い込みで、はじめから
存在しないから手のつけようがない。手をつけなければそれが自受用三昧ということです。】

 予発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足としてひとり無上の
仏法を正伝せり。あへて余輩のならふべきにあらず。予かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ家風を五門にきく。つひに太白峰の浄禅師に参じて一生の参学の大事ここにをはりぬ。それよりのち大
宋紹定のはじめ本郷にかへりしすなはち弘法救生をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。

 私(道元禅師)は発心して僧侶になってから、仏法を求めて日本中の師と仰がれる人を訪ねてまわった。建仁寺の栄西禅師の弟子の明全禅師と意気投合し九年間を過ごした。明全禅師は栄西禅師の高弟で、日本では他にな
らぶ者はなかった。私はそれから宋に渡り、法眼、偽仰、曹洞、雲門、臨済の五家を訪ねてまわった。そして太白峰の如浄禅師に参じて、ついに仏法の大事を明かにすることができた。宋の紹定元年の年に日本に帰りそれから
というもの、法を広め衆生を救うことのみを願いとした。法を得てのちもなお一層の重荷を背負っているようだ。

 しかあるに弘通のこころを放下せむ激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄してまさに先哲の風をきこえむとす。ただしをのづから名利にかかはらず道念をさきとせん真実の参学あらむか、いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひむなしく自狂にゑうてひさしく迷郷にしづまん。なにによりてか般若の正種を長じ得道の時を得ん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすればいづれの山川をとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて参学閑道の人にのこして仏家の正法をしらしめんとす。これ真訣ならむかも。

 しかし法を広めようという志を投げておいて、やがて時が来るのを待つとして、しばらく浮き雲のように気ままに先人の遺風に吹かれようと思っていた。とはいえ名利にはかかわらず道念を先とする真の参学の人があっても、
無駄に偽物の師にまどわされ、正しい仏法を知らぬまま自分流にながされて迷いに迷う。これでどうやって仏知見を得て本当の仏道を得ようか。私は今浮き雲の如く自由であるが、どの山川を訪ねようか。迷うものをあわれむ
ゆえに、宋の国で見てきた禅林の風規や仏法の本当の意味を、書き記して参学の人に残し、真の仏法を教えたいと思う。真実は真実なのだから。

 いはく大師釈尊霊山会上にして法を迦葉につけ祖祖正伝して菩提達磨尊者にいたる。尊者みづから神丹国におもむき法を慧可大師につけき。これ東地の仏法伝来のはじめなり。かくのごとく単伝しておのづから
六祖大鑑禅師にいたる。このとき真実の仏法まさに東漢に流演して節目にかかはらぬむねあらはれき。ときに六祖に二位の神足ありき。南嶽の懐譲と青原の行思となり。ともに仏印を伝持しておなじく人天の導師
なり。その二派の流通するによく五門ひらけたり。いはゆる法眼宗、イ仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗なり。見在大宋には臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれどもただ一仏心印なり。大宋国も後漢よりこの
かた教籍あとをたれて一天にしかりといへどもいまださだめざりき。祖師西来ののち直に葛藤の根源をきり純一の仏法ひろまれり。わがくににもまたしかあらんことをこひねがふべし。

 釈尊から迦葉尊者に法が伝わり代々正しく伝えられて菩提達磨大師に到る。達磨尊者は中国に法を伝え、慧可大師がその法を嗣いだ。これがインドから東の国に仏法が伝来していく始まりである。このように祖師から祖師に単伝されて六祖大鑑慧能禅師に到る。このとき真実の仏法が中国に広まって多くの禅者が出現することになった。六祖のもとに二人の高弟があった。南嶽懐譲と青原行思である。等しく法を嗣いで人天の導師となった。その二派に続いて法眼宗、イ仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗の五門が開けた。今は臨済宗のみが大いに栄えている。五家といって別れているが、異なった仏法が伝わっているわけではない。仏法はただ一つである。宋も後漢のころには教典の研究はされていたが何が本当の仏法なのか分からなかった。達磨大師が中国へ法を伝えて始めて釈尊の伝えた本当の教えが広まることとなった。この日本においても同じように法が広まることを願っている。

 いはく仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏ともに自受用三昧に端坐依行するをその開悟のまさしきみちとせり。西天東地さとりをえし人その風にしたがえり。これ師資ひそかに妙術を正伝し真訣を稟持せしによりてなり。宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は最上のなかに最上なり。参見知識のはじめよりさらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。

 仏法を得、伝えてきた諸祖ならびに諸仏ともに自受用三昧に坐禅するのが悟りを開くための正しい道としてきた。インドでも中国でも悟りを得た人はそれに随っている。これは悟りを得た師がそれに答えうる弟子にやっとの思いで法を伝え、弟子はそれを正しく授かって保ったからだ。宗門の正伝にはこうある。師から弟子に正しく伝わってきた仏法は最上のなかの最上である。その法に出会って修行しようというのなら、焼香、礼拝、念仏、修懺、看経に用はない。ただひたすら坐禅して身心脱落してみよと。

身心脱落がそのまま坐禅のようすです。自受用三昧に坐禅していると、不覚にして気づくと外に降っているはずの雨がからだの中に降っていたりします。全身が雨になってしまい、自分がどこにいるのかわからない。ついに悟りを得たかと喜んでいると、それを見ている奴がいるぞと師に指摘されます。その見ている奴が自己の正体です。そいつを殺さないと、悟りを得たと喜んで手放したくなくなります。これは悟り病です。悟りを得たら悟りも手放して行く。始めから自分というものはありません。無いものが悟りを得ることはありません。悟りも、それを得るものもないのが本来の姿です。その本来の姿が身心脱落のようすです。】

 もし人一時なりといふとも三業に仏印を標し三昧に端座するとき遍法界みな仏印となり尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆえに諸仏如来をしては本地の法楽をまし覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界・三途六道の群類みなともに一時に身心明浄にして大解脱地を証し本来面目現ずるとき諸法みな正覚を証会し万物ともに仏身を使用してすみやかに証会の辺際を一超して覚樹王に端座し一時に無等々の大法輪を転じ究竟無為の深般若を開演す。

 もしほんのひとときだけでも身と口と心の三業から手を離して坐禅すれば、自己が失せてまわりの世界だけとなる。それがそのまま仏の世界であり、ありとあらゆるものが皆悟りの姿となる。だから仏の世界は作り事のない本当の安楽であり、いつでも悟りの道は荘厳されている。またあらゆる世界、六道を輪廻するすべての者が、ひとときの坐禅によって身と心の本当の在りようを明かにし、大解脱を得て本当の自分の姿を知る。そのときありとあらゆるものが始めから正しい悟りの姿であったことを知り、まわりの世界と自分がひとつになって活動するのである。もはや知るも知らぬも関係なく、どっしりと坐禅して他に比べようのない大法輪を転じて惑わされるものがなく、まったく自分を用いない深般若の智慧を現前させる。

 これらの等正覚、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに、この坐禅人、かく爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を截断して、天真の仏法に証会し、あまねく微塵際そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地草木、牆壁瓦礫みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、もみな本証の仏化を周旋するゆゑに、こけらのたぐひと共住して同語するもの、またごとごとくあひたがひに無窮の仏徳をそなはり、展転広作して、無尽、無間断、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏ぜらしむることは、静中の無造作にして直証なるをもてなり。もし、凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはる証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆゑに。
 

戻る