今を坐る
当山1月の摂心会が終わりました。参禅者も多いときは20人を超えますが、今回は16人。本堂は広いようですが、適当な間隔で車座に座褥を並べると、そのくらいの人数がちょうど良い感じです。
参禅者の中には自己を忘じて大安心を得た人もありますが、坐るということに苦労する人もあります。そういう人も志があり、自己を忘ずるということを念頭に置いて坐禅しているわけですが、その目的意識があだとなり、しなくていい苦労をしています。理論通りにやっても、なかなか理論通りいかないので、どう坐ったら良いのかと模索し続けます。結局、分かっているんだけど分からないと言わしめることになるのです。
アドバイスとしては、日常生活とは違う何かを求めるのを止めて、普通に坐って下さいと言います。テレビを観るときに、眼をどう使うか、どういう心持ちで観るかなんて考えない。面白いから観るだけ。それと同じように、坐るために来ているんだから、只坐って下さいと言います。
自己を忘ずるというのを、意識を無くすことだと思っている人もあります。そうではありません。意識の働きは、ものが見えたり、聞こえたりするのと同じ、人間に備わった機能ですから、無くす必要はありません。テレビを観るときに、自分なしに観ているのです。音が聞こえているときに、自分なしに聞いているのです。自己が無いからと言って、眼や耳を取ってしまう必要はありません。意識も勝手に働いて、いろんなことを考えます。それを何とかしよう、忘じようとする者が、ここで云うところの「自己」なのです。だから、自己を忘じようとあれこれやっているうちは、自己が失せることはありません。
「自己」というのは、意識の中で自分を認めるところの観念であり、この身を自分だと考えて何かしている様子です。自分の様子を認めて考えるから、その考えているところのものを「自己」だと思うのであって、「自己」が実際に存在しているというのは考えの上の錯覚なのです。考えを止めれば「自己」は必然的に失せますが、それは意識を無くすことではありません。
試しに坐禅中、全く何も考えないように頑張ってみて下さい。いつの間にか何か考えていませんか。そうすると、「しまった、考えを出してしまった」と反省する。その反省する「考え」=「自己」という図式です。その「反省する」という部分を止めれば、「自己」は生じないのです。
考えというものをコントロールするのが坐禅ではありません。コントロールしようとする考えが「自己」なのです。自ずから見え、自ずから聞こえ、自ずと考える。考えながら「自己」が無いというのが本当です。
では、どう坐れば良いのかというと、今に正直に坐って下さい。
「どうしても自分があるとしか思えない」という思いから離れられないというなら、離れようと自分をコントロールしないのです。「どうしても自分があるとしか思えない」と坐れば良いのです。そういう思いが実際に出てきたんです。出てきたものを無くすことはできません。それを反省して違うところへ自分を運ぼうとする考えが「自己」なのです。「どうしても自分があるとしか思えない」という思いが勝手に出てきた、それは勝手にものが見えるのと一緒です。「どうしても自分があるとしか思えない」という今の思いに手を着けず、素直に正直に「どうしても自分があるとしか思えない」と坐るとき、「自己」は失せます。
なんとなく釈然とせず、疑問が胸から去らないというなら、「釈然とせず、疑問が胸から去らない」という今の様子を否定せず、正直にそのまま坐れば良いのです。不安なら不安のまま坐れば良いです。「今」にケチをつけても後の祭りです。後からどうすることもできません。後から何も言わなければ、不安なまま「自己」は失せるのです。
工夫といって何かする必要が全くないことを知ってください。どうあっても「今」です。どうしても考えが次々と出てくるというなら、それで良いではないですか。そのまま坐れば良いです。今の様子に嘘をつかないのです。正直に今を坐ってください。
「今」というのは、これが「今」だとつかむことができません。つかんだものは今そう思っているという観念でしかありません。つかんだものは常に後追いの観念です。ですから、「今」を客観的に知ることも、分かることもできません。「今」はこうだと知っているその観念から出発して、だからこのようにすればと工夫すると、どこまで行っても観念に縛られます。「今」を知ろうとすることを止め、つかむことを止めてしまうと、「今」そのものだけが残ります。考えも思いも「今」正に働いているまま、「自己」を忘れてしまうのです。そうすると、「今」ということも知らずに、何をやっているのか分からないまま、身体が勝手に働いているという様子に落ち着いていくはずです。それが忘我ということです。
忘我になろうと思って、それを求めて坐ってもうまくは行きません。「今」というのは、そんな自分の思惑とは関係が無いのです。しかし、どうあっても「今」からはずれるということもないのですから、安心して坐にまかせることです。坐を組んだら、その後意識を特別な仕様に切り替える必要はありません。従前の様子のまま、普通に坐れば良いのです。眼や耳を特別仕様にできますか?
どうぞ意識を普通に働かしておいて下さい。その坐相は釈尊が菩提樹の下で開悟した姿です。今坐っている自分の姿は、釈尊が坐禅しているのと同じだと思って坐って下さい。あとは自分で何かする必要はなく、坐禅が勝手にこちらを導いてくれます。