坐中のこと

東山寺老師が晩年によく云っていました
「恰好をつけるな」
坐禅の工夫はこれに極まると思います

坐禅をして、とどのつまりどうなれば良いのか・・・
嘘のない、恰好つけない本当の自分であれば良いのです

ですから坐禅をして、工夫をして
これから本来の自分に目覚めるという姿勢ですと
今の自分の本来を置き去りにしてしまいます

たった今のこのようすですから
これからということは何も無いはずです

坐禅をしていて
どうなれば良いのかわからない
工夫が定まらずうまくいかない

このような感想、実感は
自分が坐禅らしい何かにならねばならい
悟ったという実感がほしいと願うことによります

どうして良いかわからない
悟れない
そんな気持ちに嘘をつかないことです

悟れない、わからない・・・
それが嘘偽らざる今のようすということです
だから何とかして・・・ということではないのです

今の自分の様子を認めて
これから工夫によって自分を変えていこう・・・
これでは今の自分と変わるべき自分が平行線をたどります

悟れない、わからない・・・
これに素直に参ずれば良いのです
ただそういう今の様子なのです

その様子が良いとか悪いとかを問題にするのではない
これを問題にする奴が、忘れるべき「自己」なんですから
問題にしなければ、自己は必然的に失せるわけです

一炷40分、ずっと何か考えていたと云う人が
雑念が消えないという感想を持ちます
考えていることが悪いことのように思うのです

考えが勝手に出てくる
その何が悪いのでしょうか
坐中こうあるべきという考えは捨ててください

『修証義』の中に
「人間の如来は人間に同ぜるがごとし」という一句があります

人間の世界に生まれ、生きている者の如来としての姿は
人間というもの、自分のありように
素直に、うんそうだ、とうなずけるようすである

駄目なままで、うんそうだ、とうなずける
苦しいままで、うんそうだ、とうなずける
事実を受け入れっぱなしにするのです

なんでもかんでも、出てくるまま
悪いものはひとつもない
今のありように、嘘をつかず、恰好をつけずにいれば良いだけです

坐禅中は静かに何も考えずにいられるが
シャバに帰ると心がざわついて駄目だという人があります

当たり前ですよ
寺という結界の中で坐れば心静かでしょう
その静かさをつかんだまま別の場所へ持って行こうとしても無理です

ものと一つになりたいとか
自分を忘じたいと願っても
工夫がうまくいかないのは自分を運ぶからです

自分がある、自分を見ている、悟れない・・・
どうして良いかわからない・・・
嘘をつかず、恰好をつけず
どうぞそのまま坐ってください

思いは思いのままにしておくのです
何も問題はありません

それじゃ、問題にしないようにしよう・・・
これはちょっと違うのです
しかしここが重要です

問題にしている自分を一度認めてから
それからそれを止めようとする
すると止められたかどうかが問題になります
これでは自分という呪縛から離れられないのです

思ってしまったことは
あとから無かったことにはできません
ですから思いっぱなしで良いのです

問題にしていようが、していまいが
自分があろうが、無かろうが
妄想、空想エトセトラ

それらをなんとかしようとしたとたんに迷う
何もしなければ迷わない
坐禅は今そのもののようすなのです

何かを得るのではない、知るのでもない
要するに坐禅はただ坐るだけです
坐相を調えて、息をしているだけ

初参で坐った姿のままでよいのです
その先の工夫は
嘘をつかず、恰好をつけず、力を入れず、どうなっても良し

そうすれば、坐中といわず
日常生活すべてが
大変よい修行になるはずです

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