迷いと悟り。自分とは何なのか。どうあるのが本当なのか。
自己と見性
「仏道を習ふといふは自己を習ふなり。自己を習ふといふは自己を忘るるなり」道元禅師『現成公案』より
自己を忘れるには、坐禅をするにしくはない。ただ坐れば良い。坐相を調え、息をしているだけ。それだけである。
必然的に自己を忘れるのである。今まで確かに自分があると思っていたのと同じ確かさをもって、自分が無いと思う。
そもそも自己とは何か
坐禅をしていて、いろいろ雑念が出てくる自分。足が痛いなあと思う自分。
自分というものはどこにあるのか。頭の中にあるのか。胸にあるのか。腹にあるのか。
日常普通に生活していて、特に自分と意識しないし、自分について問うことはない。坐禅なんかしなくても生きていける。
雑念、痛み、怒り、悲しみ、苦しみ等を認識し、問題として取上げると、問題にしている主を自分だという。
今の自分の様子が分かる、今自分がどうであるか知っているというのは、観念の世界である。分かる、知っていると云って指し示すところの様子は現実の 「今」ではない。ああだこうだ云っているという観念上の「今」である。
人は思い、考えることができる。それは、見える、聞こえる、匂う、味がする、痛みや心地よさを感じるという働きと同じである。自分という確固たるものがあって、それが目を使ってものを見ているのではない。勝手に見えてしまうのであって、見えたからそれは自分が見ているのだと説明するだけのことだ。勝手に聞こえている。それを自分が聞いていると説明する。自分があって、自分が思ったり考えたりするのではない。今思ったり、今考えたりした、その事をもってイコール自分だと思っているのである。自分というのは、思い、考えそのものであって、自分という実体があるのではない。見える、聞こえる、思うという機能をもって、考えの上で自分を想定しているだけなのである。
自分とは考えの上に咲いたあだ花である。実体が無いものを、考えの上で在ると想定して、信じているだけだ。
ではこの身体は何か。この身体は自分のものではない。宇宙そのものの働きの姿である。だから、自分の思い通りにはならない。生まれてきたくなかったとしても、もうすでにこの通りにある。年をとりたくないと云っても歳月は人を待たず、いずれは病気になって死んでゆく。永遠の命を願っても決してかなわない。そして水になり、大地になり、川になり、海になり、永遠に変化していくのみ・・・この身はその変化の真っ最中なのだ。それが無常ということである。この無常の身を自分だと云ってつかんで離さないから迷う。離せば迷わない、仏の教えとはそれだけのことである。
自分を手放すには今に成り切れば良い。今に成り切るには、思い、考えを問題にしなければ良い。今に成り切れば、必然的に自己は失せる。一度失せてみると、「ああなるほど」と合点がゆく。見性するのである。
自分を忘れる、無くすというのが修行の眼目となるが、自分というものがまずあって、修行によってこれから自己を消していくと思っていると、どこまで行っても修行は成就しない。自己というものはもともと存在しないからである。
自分とは思い、考えの内にしかない。思い、考えている様子を自分だと思っているだけである。まず自分という確固たるものが存在していて、そしてその者が思ったり、考えたりしていると思うと間違えるのである。思ったり、考えたりしていること自体を、自分であると想定しているだけなのである。思い、考えの上にしか、自分というものはない。自分というのは、思い、考えそのものであって、思わず、考えなければ、自己は失せる。それを行ずるのが坐禅なのである。
しかし一度自分があると思い込むと、この思いから離れることが難しくなる。
坐禅中目の前に畳があり、それを見ている自分がある。どうしても自分が見ているとしか思えない。見ている視点がこちらにある。どうしてもある。
これを工夫によって取り除こうと意識が働く。そして自己を無くそうと頑張る。いくら頑張っても、うまくいかない。
自分という実体はなく、考えそのものなのであって、見ている者があるというのは、考えの上で考えに振り回されているようすである。考えの延長線上でいくら工夫しても、考えから逃れることはできない。いくら考えても、本当の自分は手に入らないのである。
そう分かっていながら、観念で示す「今」になろうと頑張る愚をなぜかやってしまう。観念上の自分に実体があるような気がしてそれを否定できないのだ。これをやっているうちは、今に成り切ることも、自己を忘ずることもできない。本来無いものを、在るとかたくなにつかんで離さないのが、坐禅がうまくいかないと云っている人の様子である。
坐中は常に自分と対峙しているわけだから、自分の様子が気になるのは仕方ない。自分から離れられないのは、単純に自分のことを考え続けているだけで、考えるという人間必須の機能が働いている様子である。だから、自分があると云っても、つまりはそれが「今」の様子そのものなのだから、別に気に病む必要はもともと無いのである。
そういう今を素直に行ずれば良い。
「今」の自分の様子を認めて、自分を無くそうとしたとたんに迷うのである。無いものを在ると認めて、それからそれを無くそうとする。自分の様子を観念に仕立てておいて、それを元手にして観念の上で無くそうとするのであるから、どこまでも考え続けているだけであり、無理難題を自分に課することになる。
「今」というのは、自分があろうと、無かろうと、等しく「今」なのである。
「今」は考えで操作できない。何かしようとしたときには、「何かしよう」という「今」があるだけである。「今」はただ受け入れるしかないのである。
「今」の様子に素直に行くだけで良い。
坐の工夫というのは、坐相を調えたら、坐禅しないことである。
雑念が出てきて困るという。それには雑念が出て困っているという「今」をそのまま行けば良いだけのこと。一端思ったことはどうやっても取り返しがつかない。それを、雑念をなんとかしようとするから訳がわからなくなる。雑念と名付ける前の様子に徹しようだとか、雑念を放っておこうとか、いろいろ雑念を巡って考え続けるだけのことだ。
雑念が出てきて困っている・・・それが紛れもない「今」の様子である。だからどうするのではない。前後なしに「雑念が出てきて困っている」なのである。考えの意味内容など、坐中においてはどうでもいいのだ。自分がある、自分を見ているというなら、それが「今」の様子である。それが良いとか悪いではない。その通りでもう終わっている。だから、は無い。
胸の中がもやもやしてどうもすっきりしない、自分の感情がついてこない、頭では分かるが確信にならない等、どれもその思いそのものを問題にしている様子である。、坐禅によってなんとか解決つけようと努力するが、それはうまく行かない。その思いを問題として認めておいて、これから坐禅という手段でもって、悟りという解決に持って行こうとするからである。
自分が無いということを、全く受け付けない人もいる。「だって昨日の自分があったではないか。今こうしている自分があるじゃないか。明日だって自分があるに違いない。これをどうして無いと云えるのか。」
どう云おうが、「今」の思い、言葉である。「今」の観念の様子である。目の前の現実を見ずに、観念の世界で問答しながら坐禅しているのでは、10年経っても20年経っても見性することはない。
「今」の様子を素直に受け入れっぱなしにしていれば良いのである。ただ坐れば良いのである。坐るために坐るのである。「今」になりきれば、必然的に自己が失せるのだ。考えていても、妄想空想していても、ぽけーっとしていても、何だろうと同じである。少しの疑いもなく、そのままでいれば、忘我となる。ころっと自分が落ちて、いままで自分が確かにあると思っていたのと同じ確かさで、自分が無いと思うのである。不思議なことに、確かに自分が無い。まわりのものが自分そのものである。そうとしか思えないのである。「今」に徹するだけで確実にそうなる。
坐禅をするというのはそれからのことである。それまでは、坐禅の恰好をしたまま、自分がどうなった、こう変化した、こう見えたといって問題にしているだけだ。自分の様子や人のことを見て、良い悪いと云っているだけのことである。
しかし悟りを知れば、人間はどうしても悟ったイメージをつかんで離さず、そうなろうとする。すっきりしない、確信が得られないとなると、すっきりさせよう、確信を得ようと、知らずに力を入れてしまう。「今」に成り切ろうと頑張ってしまう。確信無くすっきりしない「今」を払拭しようと頑張る。そのことに自分で気づかない。そこで助言が必要となる。
だから参禅するのである。きちんと指導してくれる坐禅会に行って、参師問法する必要がある。独参にありのままの「今」を持って行けば良い。作り事をこしらえて持って行っても意味がない。師に褒められるために行くのではない。正師であれば、間違って力を入れているところを指摘してくれるはずである。