工夫について

自分が悟るために坐禅をするという態度は
すでに坐禅の工夫からはずれています

禅というと論理を超越した何かというイメージがありますが
理屈は意外に簡単なものです

“悟るべき自分が元々存在しない”
“よって自分が悟ろうとしても不可能である”
“したがって、始めから無いままにしておくのが工夫である”

悟れないと云って苦労している人は
自分を悟らせるために必ず何かやっています

一人で坐っていると
悟るために自分を巡ってぐるぐるやっていることに気づかないものです

そこに参禅問法ということがあるのです

忘我になるのが悟りだと思えば
まずは自分という何かしらがあるから
それをこれから無くさねばならないと考えるのは自然です

たとえば数息観をやっているという人が居て
ゆっくりと一息づつ数えて、十まで行ったらまた一つからのくり返し
それでどうですかと聞くと
なかなか忘我になりませんと云います

忘我になるために数息観をやると
自己が失せる様子を期待しながら
自分の様子をずっと観ている状態がどこまでも続いて行きます
そして今の坐が良かったとか悪かったとかという感想が残ります

なにもしない工夫といっても
なにもしないことによって悟りを得ようということだと
なにもしない自分の様子がどう変わっていくかが気になります
やはり上手くいった、駄目だったという反省が残ります

こんなに坐っているのに何も変化がない・・・

工夫というのは、悟るための方法ではありません

坐禅中に何をしていればいいのか
どうあるのが正しいあり方なのか
そんな疑問がくり返し出て来て、らちがあかないということであれば
工夫のやりようを、もう一度考え直してみる必要があるでしょう

臨済宗、曹洞宗等、各宗派いろいろ工夫の方法がありそうですが
工夫とはすなわち自分を捨てるということ一つしかありません
工夫は悟るための方便ではないのです
これから工夫をして将来悟ろうということをすると
自分と悟りとが永遠に平行線をたどることになりかねません

まずは素直に自分を反省してみることです
今の自分を嫌って、より良い自分になろうとしていないかどうか
悟りという境地があるのだと認めて、それを追い求めていないかどうか
かつて我が身に体現した見性体験を再現させよう、さらに向上させようとしていないかどうか
どれも、自分を中心にすえて、あれやこれやとやっているようすです

自分の心境がこのようになりたいという思いから坐禅の目標を定めると
今自分がどうなっているのかということが一番の関心事になり
自分を見つめ、自利を追求する態度がずっと続いて行きます
その上でどんな工夫をしてみても
自分を忘れる、捨てる方向になかなか向かいません

坐禅をして自分がこのようになった、心境の変化があったといって
喜んだり、何もないといってがっかりしたり
坐禅をしていても、坐禅の格好をしているだけで
釈尊の教えとは何の関係も無いというのはありがちなことです

“坐禅は坐禅のためにす”

自分なんてどうなっても良い
こんなものもう要らない
そういう気持ちになったら
あとは野となれ山となれ

そうなったら工夫が工夫となる時節
工夫あって工夫するものなし

只坐っている
只息をしているだけ
そう思うものも無くなって
知らぬ存ぜぬ

何をしているのか知る人もなし
そこが工夫の要訣です

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