救い

 坐禅に来るというのは、その人に何かしら求めるものがあるためだと思います。その内容はさまざまでしょうが、たいてい自分がこういう状態だからそれを坐禅によってなんとかしたいということです。高尚な趣味として坐禅する人もあります。それも何かしらの満足を得たいということでしょう。

 初めて坐禅に来た方には、この身は無常であって、自分の思い通りにはならないものだから、まずはポンと単の上に置いておくように坐ってくださいと、一通りの説明をして坐禅していただきます。しかし、自分をなんとかしなければならないとか、坐禅はこうあるべきだという観念が、いつまでもつきまとうのが普通です。

 曰く、今回は静かに気持ちよく坐れた。今回は雑念が出てうまく坐れなかった。自分を見ているものがなくならない等。自分のことが問題Iになっているために、自分の状態を常に観察し、自分から目を離すことができません。どうしても成道したようすを見届けたいと、心が働いてしまいます。坐禅に対して持つイメージ、先入観が強く影響します。坐禅とはこうあるべきだと、一度思い込んだものは、なかなか捨てられないものです。坐禅から離れると、また思い通りにならない日常生活が待っています。坐禅をしているのに、自分というものはちっとも変わらないのです。

 私が新潟の師寮寺にいたとき、年4回の摂心に参加する人達が、数人の常連さんの他は、3年くらいの周期で入れ替わっていきました。3年坐禅して何も変わらないと、もういいかと思うようです。いくら坐っても何か新しいものを得られない、救われたような気がしないという状況に、3年も耐えたのですから、本当ならもっと仏果というものがあって良いはずです。

 始めたばかりの参禅者が、救いというものをどう考えているかは、自分の経験上に照らして考えても、おおよそ推測がつきます。日常生活のなかで嫌だと思う心のようすがあって、それを坐禅によって解決したいと願う。坐禅によってまず心の負荷をなくしてから、日常生活を楽に送ろうという構想を持ちます。そして期待をもって坐禅するわけです。しかし、やってみると心が落ち着いて楽になったような気もするが、はっきり救われたという確信的気分ではありません。日常生活にもどると何も変わっていないのでがっかりします。長く続けていけば、いつかは見性して安楽な世界が開けるだろうと思って、工夫に工夫を重ねます。やがて坐禅する意義もあやふやになり、だんだん坐るのにも飽きて、ときに苦痛となり、坐禅からすこしづつ離れて行きます。欲しかったのは、自分というものの変化であり、自己の向上です。それこそが救いであったものが、現実には何も変わらないわけですから、坐禅するのがかえって苦悩の種になってしまいます。

 坐禅がうまくいかない理由は、なにか根本的な問題によるのだろうと思います。それは、おそらく自分を救ってやろうという動機です。自分を良い方向に持って行こうとする動機が、坐禅のさまたげになっているということです。自分が良い方向に行っているかどうか、工夫がうまくいっているかどうか、それがつねに気になります。あるときは工夫がうまく行っていると云い、あるときは雑念が出てうまくいかないと云います。結局、自分を良くしたいのです。自分が良くならねばならないという考えが、自分から手を離せない一番の原因です。自分を良くしたいという思いをめぐって、良い悪いをずっと言い続けることになるのです。

 仏説の根幹は、このからだは自分の思い通りにならないという真理です。生まれて、年を取って、やがて病気になり死ぬまで、自分の思いとは関係なしに進行して行きます。この身は無常です。宇宙とともに、ただ変化して行きます。それを、この身は自分のものだと思って、自分の好きなようにしたいと願い、それが思い通りにならないときに苦悩が生じます。自分のこころですら、自分の思い通りにならないのです。、坐禅をして、工夫を重ねて、自分が思っているような悟りの方向に行かないと云っても、それは無理というものです。

 仏の説いた救いとは、この身が無常であることを知り、自分の思い通りにしようという一切の努力を止めたときに、初めて実現するものです。それは、自分が成長したとか、向上したということとは、あまり関係がないのです。むしろ現状と何も変わりません。変わらないまま、そのありのままを受け入れて、それを何とかしようとするものがなくなれば、それで問題解決です。問題にしなければ、ただ事実だけがあって、問題は生じないということです。それでも現前として、不安があるとか、こころの痛みがあるという問題を感じることでしょう。不安や痛みがあると一度認めたものは、これからその認めたところのものを無くそうとしても、決して無くすことは出来ません。音が聞こえた、ものが見えたという現実を、これから無かったことにしようとしても出来ないのと同じです。不安や痛みがあっても、それはどうにもならないものと思うしかありません。不安や痛みがあっても良いのです。それを無くそうとすると、苦悩はますます深まります。不安や痛みの無いきれいさっぱりしたようすを求めるのが坐禅ではないのです。

 自分のようすを問題にしないで行けば、自分を何とかしたいと思う主が消えてしまいます。自分を見つめるその主は、意識の上に咲いたあだ花です。自分を問題にしたときにしか現れません。元来存在しないものですから、自分の無いようす・・・無我、無心というものを獲得することもまた出来ません。実際には、今すでに、無我無心でもって、聞こえ、見えているのです。自分というのは、すでに起こった結果の認識です。自分のようすとしてとらえたものは、すでに観念です。自分が聞き、見ていると認識したとき、観念上、自分が想定されるだけです。その観念上の自分を中心にして、自身をなんとかしようとすると、考えの中を彷徨うことになります。自分のようすをまだ悟っていないと認識して、その観念をもとにしてなんとかしようとする・・・そうすると、どこまでもそのように考える状態が続いていきます。それを止めるのが坐禅です。不安や痛みそのものとなって、それを自分で何とかしようとしないのが正しい工夫のありようです。たとえ不安や痛みがあっても、坐禅ができるし、歩けるし、ごはんが食べられます。勝手に思わせておけば、不安や痛みは、出てきたり出てこなかったりしながら自然に消えていきます。

 自分というものが、架空のものだと実証すれば救われるのです。これを実証するには、難しいことは何もありません。不安も痛みも事実ですから、それを嫌がらずに、その先のこころの安定など求めずに、単純にただ坐れば良いのです。この身は無常であって、決して自分の思い通りにはならないことを念じるだけで良いのです。そのとき、その行によって自分を少しでも良くしたい、救われたいと働くこころも、よくわからない、うまくいかないというこころも、出てくるままにさせておくだけです。だから、ということなしに行くことです。思い切って、自分なんかいらない、どうなっても良いと、覚悟を決めれば成道するでしょう。自分を大切にしながらでは、坐禅になりません。捨てなければ得られない道です。自分を捨てるというのは、自分を殺すともいい 自分を放り投げるともいい、自分を忘れるともいい、自分を観察しないともいい、自分に手を着けないともいいます。どのように云っても同じことです。これらの目指すところは、これから修行によって達成されるものではありません。すでに誰もがそのように在るのです。ただそのように在るのだとこころを定めれば、あとは坐相を調え、息をしているだけです。

 こころの状態の善し悪しをいわないで坐禅ができれば、日常生活においても同じことです。不安や痛み、こころに何が出て来ても問題にせずに、食べるときは食べ、仕事をするときは仕事をし、普通に生活ができれば、それ以上のことはありません。釈尊は80歳で遷化されましたが、最後は食中毒とも赤痢とも云われ、大変な苦しみの中で亡くなっていきました。悟ったからといって、人間的な苦痛が消え去ってしまうわけではないのです。人に誹謗中傷されれば落ち込みますし、ひどい裏切りを受ければ絶望します。天災や交通事故でとんでもない事態になるかもしれません。事実は事実ですから、無かったことにはできません。ただ事実のまま行く以外に真実の道はありません。うそ、いつわりなく、事実のままであれば、その上なにかしようという自己はすでにありません。自己なきまま行けば、何が起こっても問題にならず、問題が起きなければ、それがそのまま救いということです。

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