種雲山耕月寺由来
種雲山(しゅうんざん)は山号です。その昔、寺院は山中に建てられることが多く、何々山の何々寺と呼ばれました。高野山や比叡山は、山そのものの名前です。その後、平地に建てられた寺院にも何々山と名前を付けるようになり、山号というものができました。雲を踏んで耕すように、または月に種をまくがごとくに精進せよという意味の「耕雲種月」という禅語があります。種雲山耕月寺の名はこれからとったものです。
耕月寺は、始めは現静岡県三島市の佐野片平山蟹沢にある真言宗の小庵でした。佐野区にはかつて蟹沢の耕月寺の他に、佐野東の長徳寺、梨坂の法泉寺、鴛渕の高鎮寺、佐野上の大行院がありました。しかし、天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに五つの寺は焼失してしまいました。慶長元年(一五九六)、裾野市桃園の常輪寺一二世優天守曇(うてんしゅどん)大和尚が、五つの寺を統合し、元の耕月寺から場所を移し、裾野市との境界になる境川のほとりに耕月寺を開山して、曹洞宗の寺院となったのです。この地は古くは甲賀民部の屋敷があった処で現在でも字を甲賀といい、明治以降住職は甲賀の姓を名乗っています。現住職は二七代目甲賀祐慈です。耕月寺の本堂は、寛文八年(一六六八)、耕月寺七世貴峰文尊(きほうぶんそん)大和尚によって建立されたものです。耕月寺の本尊は十一面観音さまで、本堂建立にともない新造されました。平成二二年に修復され昔の姿が蘇りました。本堂向かって左手にある開山堂は、昭和一〇年の建立です。書院と庫裏は、昭和五八年に建てられました。