『仏道をならふといふは自己をならふ也
 自己をならふといふは自己をわするゝなり
 自己をわするゝといふは万法に証せらるなり
 万法に証せらるゝといふは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
 悟迹の休歇なるあり
 休歇なる悟迹を長々出ならしむ』(道元禅師「現成公案」)


何のために坐禅をするのか・・・。この最初の一歩が重要です
坐禅の姿勢は、なにも仏教の専売特許ではないからです
ただ坐相を整えても、求める方向が違うと、坐禅にはなりません
問題意識のあり方が大事です

『仏道をならふといふは自己をならふなり』

仏道とは、自分とは何かという問題を解決する道です
自分をめぐる様々な思い、こころのようすがあります
こころににストレスを感じ、嫌だなとか、苦しいと思うとき
こころの存在がクローズアップされます
どうすればこころに苦悩を感じずにすむのか、こころはどうあればよいのか
そう疑問に思い、答えが欲しいと思ったら、それが真の自己とは何かという問題の端緒です

『自己をならふといふは自己を忘るるなり』

今これを読んでいる自分
このたった今のようすがすべてです
今から離れることはできません

自分がこれを読んでいるといえば、今自分を説明をしているようすです
説明をつけると、その主体としての「自己」が想定されます
自分のやっていることを説明したときに、それをやっているのは「自己」だと考えらるものです

「自己」に実体はなく、「自己」そのものを見ることはできません
自分のやっていることを、自分で見ていると言っても
自分のしていることを説明しているという、今の意識の働きです

「自己」をつかまえることは出来ません
説明ではない「自己」の本性をつかみたいと思ったら
説明するのをやめれば、説明する以前の本体になります

つまりは、本当の「自己」を得たいと思えば
「自己」を忘れればいいということです

『自己をわするゝといふは万法に証せらるなり

しかし、「自己」を忘れようと努力しても、「自己」は無くなりません
「自己」を忘れようという行為が、「自己」を想定してあれこれやっているようすだからです
その努力している姿が、どこまでも続いていきます

そんな努力をしなくても、音が聞こえたままが、そのまま真の「自己」のようすです
ものが見えたままが、真の「自己」のようすです
いろいろ考えていることそのものが、すでに真の「自己」のようすなのです

今の自分のようすを自分で証明しようとすると・・・
たとえば、今たたみをみているとか、鳥の声をきいているとか、自分をみているとかを知っていると思う
そうすると、どこまでも知っている主体としての「自己」の観念から離れることはありません

真の「自己」は、自分で証明する必要はありません
自分で証明する、知る以前にもう成り終わっているのです
終わっているものを、取り上げるのは観念の世界です

万法に証せらるゝといふは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』

見ている自分、聞いている自分、思っている自分のように、観念に移して自分のようすを知ります
観念に移す前に、ものは終わっているわけです
終わったまま、知らないままにしておくのが坐禅です

坐禅の坐の字は、座ではありません
座はものを置くイメージ、坐はなにもしないというニュアンスがあります
なにもしないで、単の上に示されているのが坐禅です

ですから何の工夫のしようもありません
ただ息をしているだけです
その先に何があるわけではないのです

自分を忘れていることは、そのときに知ることはできません
ふと気がつくと、音だけがあって自分がどこにいるのかわからなくなったり
たたみの中に自分が入っていたりします

自分がこちらにあって、むこうに対象物があるというのは
もともと観念上の造作なのです

悟迹の休歇なるあり 休歇なる悟迹を長々出ならしむ』

だからといって、ものとひとつになったから、悟り終わったというのではありません
そうなったことを知っているというのは、観念上悟った自分を作っているのです
それにしがみついたら坐禅にならなくなります

今の自分のようす以外に、特別な悟りの境地などありません
素直に自分を受け入れっぱなしにすればいいのです
自分のようすを知って何とかする必要なく、このままで問題がないとわかったら
悟りなんてものも問題にせずにやることです
自分に問題がなくなれば、こころの問題も解消します

当耕月寺では毎朝日課の坐禅会があります
ただこころを問題にしない、自分を知らないままの工夫を専一にしていただきます


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