正法眼蔵随聞記

 示に云く、はづべくんば、明眼の人をはづべし。予在宗の時、天童浄和尚侍者に請ずるに云く、外国人たりといへども元子器量人なりと云てこれを請ず。予堅く是を辞す。其故は、和国にきこゑんためも学道の稽古のためも大切なれども、衆中に具眼の人ありて、外国人として大叢林の侍者たらんこと国に人なきが如しと難ずることあらん、尤もはづべしといいて、書状をもて此旨を伸しかば、浄和尚国を重くし人をはづることを許して更に請ぜざりし也。

 随聞記は道元禅師の弟子懐弉(えじょう)が禅師の言葉を筆録したものです
。道元禅師がご自身の修行体験をもとに、弟子達に修行の心得を説いています。
 修行が第一であるから、遠慮しなければならないときは遠慮すればよい。ものごとの是非をはっきりさせようとする人は常にいるから。如浄禅師がわたしの器量を認めて侍者にしようとしたことがある。しかしそれでは大宗国に侍者たる器量のある修行者が無いように思い、非難されるかもしれない。如浄禅師もわたしの思いを察して更に請することはなかった。



 示に云く、有人の云く我病者也、非器也、学道にたえず、法門の最要をききて独住隠居して、性をやしなひ、病をたすけて一生を終えんと。示に云く、先聖必ずしも金骨に非ず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思へば幾ばくならず。在世を考えるに人皆俊なるに非らず。善人もあり悪人もあり比丘衆の中に不可思議の悪行するもあり、最下品の器量もあり。然れども卑下して道心をおこさず非器なりといって学道
せざるなし。今生もし学道修行せずは何れの生にか器量の物となり不病の者とならん。只身命をかへりみず発心修行する学道の最要なり。

 ある人が云う、自分は病人で悟りを開く器ではない。とても学道修行に耐えられないので、
仏法の一番肝心なところを聞いて一人隠居し、病気療養をしながら一生を終わりたいと。祖師方が必ずしもからだが丈夫で才覚のそなわった人ばかりではなかった。人は必ず死ぬのであり、永遠の寿命を保つことはできない。仏弟子といっても善人も悪人もあり、相当おかしなやつ、最低の人間もいた。そんな者達でも仏の道を学びたいと道心を起こせば立派な仏弟子なのである。今修行しなければいつ生まれ変わって修行しようというのか。修行とは自分の身命を省みないことなのである。自分のからだや能力のことばかり慮っているのは仏弟子とは云わない。




 示に云く、学道の人衣食を貪ることなかれ。人に皆食分あり命分あり。非分の食命を求むとも来るべからず。況んや学仏道の人には施主の供養あり。常乞食絶ゆべからず。常住物これあり。私の営にも非ず。菓ら、乞食、信心施の三種の食、皆是れ清浄食也。其の余の田・商・仕・工の四種は皆不浄邪命の食なり。出家人の食に非ず。昔一人の僧ありき。死して冥界に行きしに閻王の云く、此人命分未だ尽きず、帰すべしと云いしに、有る冥官の云く、命分ありといへども食分既に尽きぬ。王の云く、荷葉を食せしむべしと。然しより蘇りて後は、人中の食物食することをえず、只荷葉を食して残命をたもつ。然れば家出人は学仏の力によりて食分も尽くべからず。白毫の一相、二十年の遺恩、歴劫に受用すとも尽くべきに非ず。行道を専らにし衣食を求むべきにあらざるなり。身体血肉だにも、よくもてば心も随て好くなると医法等に見ること多し。況んや学道の人持戒梵行にして仏祖の行履にまかせて身儀をおさむれば心地も随って整ふなり。学道の人言を出さんとせん時は三度顧みて自利利他の為に利あるべければ是を言ふべし。利なからん時は止るべし。是の如き一度にはしがたし。心に懸けて漸漸に習ふべき也。

 仏道を学ぶ者は衣服や食べものを貪ってはいけない。人には一生分の食べ物や命が定められており、それ以上に求めても得
られない。まして仏道を学ぶ者には信心の施主の供養がある。托鉢をつねにしていれば、寺には必要なものが備えられており、自分で稼ぐ必要もない。山で採れる食材と托鉢と施主からの供養という三つは、皆清浄の食である。その他に田を耕したり、商売をしたり、仕官したり、職人をしたりして稼ぐのは出家人としては法にかなわない不浄の食べ物というべきだ。昔一人の僧があった。死んで閻魔大王が言うに、まだ一生分の命が尽きていないから帰せと。ある冥官が言うに、命は残っているが食の方が尽きていますと。王が言うに、蓮の葉を食わせろと。僧は蘇生した後、人の食べ物は食べられず、蓮の葉で残りの命を保った。であるから、出家人は仏を学ぶ力によって、食分も尽きないと思え。釈尊の残された威徳は永遠に受用するとも尽きることはない。修行に専念し衣食を求めるな。からだが健康ならば心もそれに随うというのが医法の見解である。まして仏道を学ぶ者は、祖師方と同じような生活をすれば心もそれに随って整うのだ。仏道を学ぶ者は言葉を出そうとするときは三度顧みて、自分のため相手のためになると思ってはじめて言うのがよい。ためにならないと思えば止める。なかなかできないことであるから、いつも心懸けてだんだんに習っていくとよい。




 一日示に云く、聞くべし見るべし。又云く、経ずんば見るべし、見ずんば聞くべし。言うところは、聞かんよりは見るべし。見んよりは経べし。いまだ経ずんば見るべし。いまた見ずんば聞くべしと也。又云く、学道の用心、本執を放下すべし。身の威儀を改むれば心も随って転ずる也。先律儀の戒行を守らば心も随って改まるべき也。宋土には俗人等の常の習ひに、父母の孝養の為に宗廟にして各々集会して泣くまねをするほどに、終ひには実に泣くなり。学道の人も、はじめ道心なくとも只強ひて道を好み学せば終ひには真の道心もをこるべきなり。初心の学道の人は只衆に随って行道すべき也。修行の心故実等を学し知らんと思ふことなかれ。用心故実等も只一人山にも入り市にも隠れて行ぜん時錯りなくよく知りたらばよしと云う事也。衆に随って行ぜぱ道を得べきなり。たとへば舟に乗りて行くには故実を知らずゆく様を知るらざれども、よき符ね船師にまかせて行けば知りたるも知らざるも彼岸に到るが如し。善知識に随いて衆と共に行じて私なければ自然に道人也。学道の人若し悟りを得ても今は至極と思ふて行道を罷ることなかれ。道は無窮なり。さとりても猶行道すべし。良遂座主麻谷に参ぜし因縁を思ふべし。

 ある日示していわく、聞いてみよそして見てみよ。又云う、経験してないなら見てみよ、見てないなら聞いてみよ。つまり、聞いて知るよりは見るのがよい。見るよりも経験してみるのがもっとよい。まだ経験してないのなら見て学ぶということがあり、見ることがかなわなければ聞いて学ぶということがある。学道の用心とは自己を投げ捨てることである。自分に執着する態度を改めて、自己を捨てた修行の中に身を投げれば、心も随って転じていくものである。宋の国には俗人の慣習に、父母の供養のために墓に集まって泣くまねをするというのがある。すると終いには本当に泣いてしまう。学道の人も、始めは道心などなくても道を好み仏道を学ぶ環境に身を置けば、自然と本当に道心が起きてくるものだ。初心の学道の人は只みんなに随って修行すればよい。修行の心得だとか昔からのやり方などを勉強しようなどと思わなくてよい。そのようなことは一人で山に入ったり、市井にあって行じていこうとするときに役に立つというくらいのものだ。みんなに随って修行すれば道が得られる。舟に乗ったら船頭にまかせていけばよい。どうやって漕ぐか知らなくてもちゃんと彼岸に着く。よく心得た船頭にまかせてみんなと一緒に修行して自分というものを捨ててゆけばもはや道人である。もし悟りを得て、もう悟ったからこれで良い師もいらないと思っても参禅をやめてはいけない。仏道に終わりはない。悟ったらなお修行である。良遂座主が麻谷禅師に参禅した因縁を思い出すとよい。

 示に云はく、学道の人は後日を待て行道せんと思ふことなかれ。只今日今時を過ごさずして日々時々を勤むべき也。ここにある在家人長病あり。去年の春の比相契りて云はく、当時の病療治して妻子を捨て寺の辺に庵室を構えて一月両度の布薩に逢ひ、日々の行道法門談義を見聞して随分に戒行を守りて生涯を送らんと云いしに、其の後種々にち療治すれば少し減気在りしかども又増気在りて日月空しく過ごして今年正月より俄に大事になりて苦痛次第に責る呈に、先づ人の庵室を借りて移り居てわずかに一両月に死去しぬ。前夜菩薩戒を受け三宝に帰して臨終よく終りたれば在家にて狂乱して妻子に愛を発して死なんよりは尋常なれども、去年思ひよりたりし時在家を離れて寺に近づきて僧に馴れて一年行道して終わりたらば勝れたらましと存ずるにつけても仏道修行は後日を待つまじきと覚ゆるなり。身の病者なれば病を治して後に好く修行せんと思はば無道心の到す処也。四大和合の身誰か病なからん。古人必しも金骨に非ず。只志の至りなれば他事を忘れて行ずる也。大事身に来れば小事は覚えぬ也。仏道を大事と思て一生に窮めんと思ふて日々時々を空しく過さじと思ふべき也。古人の云く、光陰虚しく度ることなかれと。若し此の病を治んと営む呈に除かずして増気して苦痛弥逼る時は痛みの軽かりし時行道せでと思ふなり。然れば痛を受けては重くならざる前にと思ひ重くなりては死せざる前きにと思ふべき也。病を治するに除こほるもあり。治するに増ずるもあり。又治ざるに除くもあり。治せざれば増ずるもあり。これ能々思ひ入るべき也。又行道の居所等を支度し衣鉢を調えて後に行ぜんと思ふことなかれ。貧窮の人世をはしらざれ。衣鉢の資具乏しくして死期日々に近づくは具足を待って処を待ち行道せんと思ふ呈に一生空しく過ごすべきをや。只衣鉢等なくんば在家も仏道は行ずるぞかしと思ふて行ずべき也。又衣鉢等はただあるべき僧躰の荘りなり。実の仏道は其れにもよらず。得来れぱあるに任すべし。あながちに求ることなかれ。ありぬべきをもたじと思ふべからず。わざと死せんと思て治せざるも亦外道の見也。仏道には、命を惜しむことなかれ。命を惜しまざることなかれと云ふ也。より来らぱ灸治一所シャ薬一種なんど用ひんことは行道の礙ともならず。行道を指置きて病を先とし後に修行せんと思ふは礙也。

 示していわく、仏道修行を志したならば修行を後回しにしてはいけない。今この時を無駄にせず日々刻々と勤めるべきである。ある在家で長患いの人がいた。去年の春お互いに約束して云うには、この病気が治ったら妻子を捨てて寺のそばに案は幹事構えて、ひと月に二度の布薩に出、日々修行して仏法の話を聞いてしっかり戒律を守って生涯を送りたいと。その後いろいろ治療して少し元気になったが、また悪くなり空しく月日を過ごした。今年正月より急に容態が悪化して苦痛がひどくなったので、とりあえず人の庵を借りてそこに移り住んだが、ひと月もしないうちに亡くなった。それでも前夜に菩薩戒を受けて、三宝に帰依してから亡くなったのだから、妻子に想いを残して死ぬよりはよかった。しかし去年思い立ったときに出家して僧侶として一年修行できたならば、これ以上のことはなかったと思うにつけても、仏道修行は後回しにしてはならないと思うところだ。身体に病気がでたらまず病気を治してそれから一生懸命修行しようと思うのは無道心というものだ。たまたま縁あって一時的に形造られた身体である。病気にならない者はいない。古人も必ずしも頑丈なからだをもっていたわけではない。ただ仏道に志す覚悟がしっかりしていたので、他のことは忘れて修行したのである。大事を前にすれば小事は気にならないものだ。仏道を大事と思って生涯のうちにこれを窮めようと思って日々刻々を無駄に過ごすまいと思うべきである。古人曰く、光陰むなしくわたることなかれと。もしこの病気を治してからと思っていても治らず、ますます悪くなりいよいよ苦痛もひどくなって、もう少し病気の軽いうちに修行しておくのだったと思うのだ。だから、は痛みがあっても重くならないうちにと思い、重くなっては死ぬ前にと思って修行すべきである。病気というものは、治療して治ることもあり、治療しても悪くなるものもある。また治療せずに治ることもあり、治療せずますます悪くなることもある。病気とはそういうものだと思えばよい。また修行するための庵を支度し、袈裟と応量器をそろえてから修行しようと思ってはならない。貧乏して修行できないということはない。袈裟と応量器が無いからといって、死期が近づくにもかかわらず、道具をそろえて庵を定めてから修行しようなどと思っていると一生を無駄にしてしまうことになる。袈裟と応量器が無くても在家のまま修行できるのだと思って修行するべきである。また、袈裟と応量器は僧侶らしく見せるための飾りである。本当の仏道は袈裟と応量器のあるなしにかかわらない。袈裟と応量器がもし持てるのであれば持てばよい。無理して求める必要はない。また袈裟と応量器を持てるのにあえて持たないのもよくない。わざと死のうと思って病気の治療をしないようなもので、外道の見解である。仏道に、命を惜しむことなかれ、命を惜しまざることなかれと説かれている。できるのであれば、灸をすえ、薬を一服飲むことは、修行の妨げとはならない。修行をさしおいて病気を治してその後に修行しようと思うのが妨げとなるのである。

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